旧中仙道の平尾宿を辿る その2 (板橋区中宿~本町)

この板橋宿にも宿場町のご多分に漏れず遊郭があって、美しい花魁たちが旅するスケベ男たちを魅了したそうだ
その名残りだか知らないが、JR板橋駅前にかつて個室付き特殊浴場があったというハナシを聞いたことがある
ちなみにその元個室付き特殊浴場の建物には、営業マン時代のお得意様が入居していたのだw
窓の形が丸くてなんか変だなと当時思ってた

現在スーパーのライフがある四つ角(板橋宿中宿近辺)から石神井川に下る御成道沿いには文殊院というお寺があって、板橋宿の名主である飯田家代々の墓所がある
その飯田家の墓地の少し奥には、板橋宿遊郭で生涯を終えた遊女達のお墓があるのだが撮影に失敗したのが悔やまれる

JIN-仁-の原作で野風さんが
「遊女花魁なんてものは、蝶よ花よとちやほやされて世の男衆の憧れなどとは言いんすけど、身請けでもされない限り廓からは一歩も外に出られぬかごの鳥みたいな憐れな身分でありんす
そしてを孕んだ客の子を堕胎して病んだり瘡毒(梅毒)で膿み崩れ使い物にならなくなればゴミのように捨て去られるだけでありんすよ」
と語っていた
瘡毒を病んで廓を追い出され入水自殺する元花魁に南方仁が出くわす場面もあった

実際、遊郭の女たちは故郷の親に売られた身寄りのない娘たちであり、病気になれば医者にも診てはもらえずに廓を追放され、人知れずひっそりと山河に逃れて野垂れ死にするのが常だった
葬儀などは行われず供養されることも叶わなかった

文殊院の墓は、盛川屋元助という旅籠屋の主人が遊女達を供養するために建てたそうだ


不動通りに戻り少し進むと石神井川に架かる「板橋」にお目にかかれる
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板で出来た橋だから板橋、しかし安直と思うことなかれ
八百年の歴史を誇る由緒ある橋であり、建立当時板の橋は珍しかったのだ
板橋区の由来でもある

日本橋から1624㍍の距離にあたる
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江戸時代には「江戸名所図絵」にも描かれた美しい橋だった
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現在の橋は昭和47年に建て架けられたコンクリ製だが木目が施されている
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江戸時代までは、板橋のたもとに高札場があって、御触れが出ると近隣の住民たちが殺到していたに違いない

石神井川を見下ろすと、南側(仲宿側)に石神井緑道が見えた
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かつての川筋を緑道として残したものであるが、ここの東側は現在の町境は石神井川ではなく緑道になっている
北区滝野川付近を散策した時にも触れたが、大雨の度に流路を変えた、近代以前の石神井川の暴れ川ぶりがをうかがい知ることが出来る


板橋を超えると「上宿」であるが、とたんに商店街が寂しくなり住宅地の色合いが強まる
橋のたもとには大木戸があって、そこから先は江戸の外だった
だから追放刑「江戸払い」になると、ここから外に出され江戸市中には戻ることが出来なかった

100㍍強ほど進むと右側に縁切榎と呼ばれる古木がある
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この榎の下を婚礼の列が通ると必ず不縁になる言い伝えがあった
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一説によると、かつてこの榎と槻(ツキ)が一緒に生えていたのでエンツキ(縁尽き)という俗信が生まれたとか
その俗信を生かそうと、離縁したくてもできなかった当時の女性たちが、この榎の樹皮を持ち帰り粉にして亭主の茶や酒に混ぜることで離縁を叶わせようとしたこともあったらしい

家茂将軍に嫁いだ皇女和宮様の行列がここを通過した際には、上から下まで菰ですっぽり覆った
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とりあえず、この榎のことは家内には黙っておくこととするかw

しかし、いくらなんでもこの旧跡のすぐ裏に公衆便所はないでしょうがw
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このエリアも実に味わい深い
じじいになって誰からも相手にされなくなったら、弁当持参で一日かけて歩き回りたい宿場町の史跡である


参照:街と暮らし社編 江戸・東京 歴史の散歩道4


空蝉








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